昭和41年10月14日 朝の御理解
今朝方御夢を頂きました。本部の有名な先生が椛目のお広前を、にあるようだけれどもね、説明をしておるのは合楽のお広前、いろいろ言われて、何か質問のような、それともなじるようなその気分ですね、その、いろいろ私に質問をしておられるというようなお夢であった。
それでもう、もうこれは皆さん、御参りになった方がないから御承知ないでしょうけども、御結界が第一ここは左にある。普通は右にだけしかありません。ここは反対に左のほうへある。それからどこもここも、いうなら御結界がこういうところ、いわゆる、今こういうふうに神棚、あそこを神棚と言うんですね。ここを取次ぎの間と言う。そこを氏子の間と言う。いわば内殿、取次ぎの間、それからここをお広間、教場を氏子の間というふうによんでおります。
ところがその、椛目にはひとつ多いんですね。神の間というのがあって、ちょうどこここれだけの間がある。いわば、秘殿の間というのがひとつあるわけですね。まあ、名称というのは、まあ、祈念の間ということになるでしょう。この祈念の間というのがひとつ、そして取次の間になって教場、いわゆる氏子の間ということになる。
これはどういうわけにこういうことにしてあるかというと、その、尋ねられるわけです。ここ、祈念の間。まあ大祭とかなんかは、あそこに大盛がこうお供えさして頂く為には便利がよい。大体この教場と、ね、いわゆる氏子の間とこの取次の間には必ずここは、あの朝晩は〆きる戸がそこに今出来ております。御本部に御参りになりますと、お分かりになりますね、金光様のお出ましの時に、この戸が(開きますね?)。
ところがここにはその戸がないんです。そしてこの神の間、秘殿の間、そこに大きな、あの長い下までさがる御簾が下がるようになっているわけです。だから、御簾は三段になってるんですね、この場合。神の間、それから祈念の間と取次の間を仕切るところの、いうならここでのここんところに長い御簾が下までさがるようになってる。そこに区切りがあるだけでこちらの方には区切りがない。
そのことを今、どうしてかというふうに尋ねておられました。で、私がこれは、まあ私のまあ見解ですけれども、その事を私説明してるんですね。ここの取次ぎの間と氏子の間というのは、金光大神と取次ぎを願う氏子がいつも直結しておかなければならない。ね。また直結できなければならない。それに例えば、いつ、夜夜中御取次を願ってくる氏子があるかも限らんのに、ここの取次ぎの間と氏子の間が〆切ってあったんでは、私はどうもお道の信心のそれにもとるというわけです。
そんなんで私はわざわざここには戸をたれませんでした。といったような事を説明したら、はあ、そらなかなか、その、まあうばったことだなというふうに、最後には何かこう質問されるといったようなものが感心して私の説明を、まあ他にいろいろ、その、何か御理解のようなことを申しておりましたけれども。それを私忘れておりますけれども。またその御理解を芯からこう最後には聞いて帰られたかどうかそこまでは何でしたけれども。まあ、とりあえずそういうような御夢でした。
これはですね、いわばお道の信心のまあ、独壇場というならば、私はこの御取次ということだと思うんです。ね。いわゆる御取次の道の働きといったようなことも申しますが、あーこの、私先日あの、あちらの建築を見せて頂くために九州の、西日本、西海教会て言うんですかね、天理教の。まあ北九州一番の大きな教会が見事に出来ておるという話を聞いてそこに参りました。
そらいやあの、ほんとこれが私達が二回ですかね、三回かその見にやらして頂いたんですけれども、何時行っても、あの先生という方がおられないんですよね。だからどういうふうにして、まあその参ってくる信者を教導されるのかは、だから分かりませんけれども。全然おられないんです。いや勿論こう御結界といったようなは勿論無いです。なら、御結界ということは神様の世界と氏子の世界をこう結ぶと書いてある。
結界と書いてある。ですからその、そういうようなものがないですが、まああの、氏子が神様にいろんなことをお願いをする。それを、まあ先生が取り次がれるとです。これが例えば一般宗教みんな同じような事が言えれるのじゃないかと思うんですね。信者が、そこの牧師さんなり教師なり、またはお坊さんであり、というふうにその難儀な問題をもってきてお願いをする。
それから神様にお願いをしてやんなさる、まあそれを俗に言うなら、このへんで拝み屋さんていうのがあって、とうみんさんと。というのがありましてね、とうみんさんがいろんなそのお願いをすると、仏様なら仏様、お不動様ならお不動様にこうやって拝んでやんなさる。ですからそれとてもやっぱり御取次と同じようにあるけれども、全然性質を異にしておる。ただいわゆる御取次を願うということだけではないです。
直結するということは。神様、そして金光大神、そして氏子と。これがね、一貫してこう、つながらなければいけない。為にはその願うだけでは片便である。ね。いわゆる御取次ぎを願う、御取次ぎを頂いて帰るというところに、この直結しておらなければならないということが言えるのですね。私今朝のおきがけに説明をしながら私自身もそれを、またなお更そういうふうに感じたんです。御取次ぎを頂くということは、御取次ぎを願い、御取次ぎを頂いて帰るということ。
お願いをしておかげを頂いて帰るという意味じゃない。そこに私はお道の信心の、まあ独壇場的なものが、まあ、あるというふうに感じたんです。ね。ですから、まあここで私お取次ぎさしていただくなら、私と金光大神はいつも通うておらなければ、直結しておかなければならない。ね。ですから、ここらへんは例えば親先生っていえれることはそのまま金光大神につながるのであり、そのまま天地の親神様へつながるのである。
先日、熱心にここで信心の稽古をしておるんですけれども、まあ、月何回か位しか参ってきません。そらもうほんとにもうここで十何年間、まあ古い信者ですけれども。ほんとにもうよう分かっております、信心が。分かっておるだけじゃない、この頃私感心いたします事はですね、まあ非常にその真面目によく働くんです。主人が亡くなりましてね、子供四人、もうそれぞれに大学に出しました。就職させましたち、現在の二人残っておるのが、まあ大学と高校に行っております。
それを百姓かたそばに商いなどしまして、それはもうほんとにもうそりゃ、私がいつも聞いてから、もうほんとにあんたここに参ってこんでよかねち言うぐらいに感心に、その、教えを地に表していっておる。まだ親が居ますが、その親に対して、または長男の嫁がおる、その嫁に対して、子供達に対しても、また周囲の関係、もう話を聞きよんなら、もうほんとに御理解頂いとるごとある。
もうほんとにそれは素晴らしい。努力するです、ほんとに。なかなか。それでも毎日、お日参りなんかしよる人達の気持が知らん。私達はもう月なみどんどうしようもないといったようなことを、まあ共励会なんかの時にいつも話される。けれどもこれだけは、もうこの人のものなんだと。(神様はできん?)。日頃が信心が出来ておる。というわけなんですね。もうほんとに感心するぐらいに、そのやはり、信心の教えを元にして生活をしておるわけなんです。
ところが昨日です、どう言うて息子さんが、ちょうど夕方参りましてから「先生、あの、今日は広大なおかげを頂きました」と言うてやって来た。「どうしたんですか」、「家が火事になりました」「火事になったちいうてその、どういうような火事だったか」、「そらもうほんとに、私共がもうちょっとおかげ頂かなかったら、もうそれこそ、丸焼けになっとるところじゃろうと思います」ち、
近新築したばっかりでございます。それでその、倉庫の方が、こう勝手にすぐ裏に続いてございますが、そこから発火した。そこから火が出たんです。全然火の気は無いんです。だからまあ、漏電だろうということです。ちょうど五時ごろでしたから、その、ほんな網を持ったその二人しかおらなかった。それでその炊事場とこうつながっておるようにしておりますから、その分かったわけです。まあ、農機具類を焼いただけでですね。もう近所の人が皆集まってから消してもろうたというわけなんですね。
もうほんとに、あれが夜中でもあったら、もうそれこそ完全に丸焼けじゃったろうと思いますと。またその、私と姉と二人おりましたから、あれはいつも年寄りが留守番しておるのですけれども、その日に限って私と、まあ二人おってお繰り合わせ頂いたと、こう言うのです。おかげ頂いたと同時に受け物がでけたと言うて私にお取次させて頂いておりましたら、その、あちらのそのお母さんが、ね、私が言う。
なかなか信心は出来ておるというその人がです、確かにその、こう何と言うですかね、長刀(なぎなた)をこう持っているんですね、構えてから。男が剣を持つなら女の方は長刀を。ですから、これはまあ真剣という、真剣に取組んどると言うたと思ったんです。ところがその、真剣をですね、その長刀をこういう風に構えて、こういう風に構えてですね(態度で示される)こーう、こーうやってこう回りよる、こう。
ね。自分は全然動かん。そして隙があるならどっからでも打ち込んでこいちゅうごたるふうで、(こうはずっとこうを?)頂くんですね。それで私がその方に申しましたんです。あんたん方のお母さんな本当の信心が出来ておる。もう毎日参ってきよったちゃ、それこそ神様は何処へやら。もう家に帰ったら、もう信心の有るもの無いものやら分からんようなことにかえっていくのです。
もう先生いつも不思議のような事がある。この人がおかげ頂かんはずはないと思う。椛目で、」私が御理解を聞いて帰りよる。ね。ところがその、家に帰ったらもう二目見るように変わってしまっておる。なるほどおかげを頂かん元がここにあるなあと言うて、私が思うような人が沢山あるです椛目には。ね。だからほんとに、そういう人達が例えば、ならもう参りでもしなかったら、もうどういうことになるだろうかと、いうような感じがする人があります。
けれども、この人の場合はです、その、椛目には時々しか参ってきませんけれども、なかなか御理解の勉強をよーう致します。そして、その御理解を自分でよーう心の中で練る。参ちゃこん。ね。だから、まあ信心たあこういうものだと。そんなに日参り夜参り逆たんぼと何時もかつも拝むごっだけが信心じゃない。ね。親子の中にでも夫婦の中にでも、兄弟の中にでも、その信心を、教えを元にしていくということが本当だというふうに思い込んでいるわけです。
なるほど私もそれどでもいいと思うんですけれども。ね。ところが、そのことを頂きましたそれがですね、その納屋を建てます時にお伺い参りましたです。そん時にね、時期が、まだ今は時期じゃないということであった。やっぱり御造営が済んでからでしょうと。自分もそういうて書いとったんですけれども。その兄弟が来ましてから、もうこれだけの家に納屋がなかなら不自由じゃけん、さっちもっち建てろち。
金が無かなら金まで持って来てやるというように言うもんですから、とうとう負けてからその建てたんです。しかし私、その時思うたんですけれども、ほんとにあれは御神意を頂いたら御神意で動かなきゃいかんなと私は思いました。その火事が遭おうとしたのが銀行が通い出してから。まあそういうお気付けも本人な気付かなければならんと思うのですけれども。
第一、こんな事を思っておかなければならないことはです、如何に、例えば隙が無いように、さあ隙があるなら打ち込んでこいというように自分をしておるようであるけれども、さあそこが悲しいかな人間であり、生身であり凡夫であるということなんです。如何に隙が無いようにしてありましても、どこに隙があるやら分からん。いや何処にお粗末ご無礼があるやら分からん。
いや神様の目からからご覧になったら、それでもやはり隙だらけであるよということなんです。ね。自分でよっぽど自前のほうに前進しようとはしない。ちゃーんとして、こうやってから長刀を持って、こう、しよんごとあってその身を配っておるんですね。まあそれこそ人間関係の上においても、財の使い方においても、やはり金光様の御信者。なるほど金光様の御信心を頂いておる人だなというようなものが、もう漠然と分かるくらいにやはり信心生活の上に表していきよる。
だから、確かに天地の親神様の心に適うものがある。けれどもですね、これでは金光大神を抜きにしたような信心であるということ。ね。お取次ぎを頂いて、お取次ぎを願うということをしない。ね。ここんところを私は、お道の信心がですね、あるとこう思うのです。ね。だから信心はそれっきり進まない。前進しない。前に進まない。ね。もうひとつおかげを頂いている。皆さんがこうして日々お参りになるということは、お取次ぎを願われるのである。
そしてお取次ぎを頂いて帰らなければいけない。で、片便ではいけない。おかげを頂いて帰るというのじゃなくてから、お取次ぎを願いお取次ぎを頂いて帰るのである。いわゆる神様の願いというか、ね、私共の願いもあるけれども、やはり神様の願いもあるということ。氏子ひとりひとりの上に神の願いというものがあるのだということ。だから、私共の願い、お取次ぎを願わして頂くと同時に神の願いはまた私共がお取次ぎをもって頂いて帰らなければいけない。
(こうりみだりを頂いて?)おられるということは、お取次ぎを頂いて帰らなければならん。お取次ぎを頂いているわけなんです。もうひとりひとりのお取次ぎを願われるなら、お取次ぎを願われるわけなんです。そこに初めて結界。御結界。神様の世界と氏子の世界を取り結ぶこと。ね。親の願いを子供に伝え、子供の願いを親に伝える。そこに私はお道の信心の、まあいうなら独壇場的なものがあるというふうに思うのです。そういうようで、このなるほど私と皆さんというのがいつも直結しておなければならない。
また直結しておることをいつも願っておかなければならない。ね。そん為にはやはり、ここには敷居があってはいけない。さーっと走り込みでお取次ぎを願う、お取次ぎを頂く人があるとも限らん。それをいちいち開けよったけど間に合わん。そんな意味合いでここには戸が無いのですよといったようなことを説明しながらです、今日私皆さんに申しましたようなことを感じました。ね。
お道で言う御取次ぎの道の働きというものは、そういうところから道の働きは生まれてくる。なるほど私共は、お取次ぎを頂いておる時にはです、ほんとに有り難いと思うておるけれども、ね、帰る時にはなるほどそれが散漫になることも、もうやむ負えないというような場合もございますけれどもです。けど、そこんところに私はお取次ぎを頂いておけばお取次ぎの働きというものはあると私は思う。ね。
これは、まあ、あの昨日の話なんですけれども、昨日堤さんといつも親子でお参りされるわけですね。そしたら昨日一日御用頂いてこちら来ておられた。そしたら家から電話掛かってきって家の車が何か事故起こしたごたるふうですから、で、すぐ帰られた。どげなふじゃろうかと思うて、神様お願いさせて頂いとりました。ね。そしたら電話が掛かってくる。またはご本人が夕べの御祈念に参って見えられた。
それでほんとにもう、それこそおかげを頂いてから、あの電話で子供さんがちょっとこう、まあ膝かどこかに怪我された程度のことだったらしいですけれども、向こうさんも、その、もうお医者さんに連れて行って下さいと言うたけれども、いやもうこん位やから、もうよございますち言わっしゃるもんじゃから、もうその、そのまま帰ってきた。ところが誰かがそれを、まあ見とったか来とっとでしょうね、警察に届けとる。
だからその、怪我さして、その、逃げたという事になっておる。それでわざわざ大川から北野まで、その、警察が調べに来とるわけなんです。それで今夜か明日出頭せよと言うて来とるから、今日行ったらいいじゃろうか、明日行ったらいいじゃろうかと言うてから愛子さんに電話が掛かってきたぐらいです。そういう時に私は、ふっとこう、この私が直感しましたことですね。
はあ、ほんとにうちのお父さんが、あの今日お世話でございますけんで、もう今年はもうお参りするのは、直接もう、あちらの方に行っとりますと、こう言うんです。はあ、ほんとに、さあ忙しゅうもあろうけれども、ね、忙しゅうもあろうけれども、やっぱ日々のお取次ぎを願い頂くことを怠ったところに、ちょっと隙が出来たという感じがいたします。それがもちろん大難ではございませんでした。ね。
まあ、小難という程しのことでもございませんでした。けれども警察に煩わせたり、またこっちも煩わせんほどしのぎににならないというだけでも、これはお気付けとしてしてらなきゃならんだろうと。忙しけりゃ忙しい程、やはりお取次ぎを頂き、お取次ぎを願うというような信心がほんとうに育っていかれなければいけないということを感じたんですけれどね。例えば、それだけでも時間がずれとってみなさい、そういうことは起こるはずがないでしょうが。
なら時間だけ、なら、はじまってごらん。そんなこたあるはずないです。ね。もう日々こうやってお取次ぎを頂き、お取次ぎを願うということがです、まあだ言葉に表現できませんけれども、その位のその、それが働きとして私共にかけられてるか分からんのですけれども。中にはです、なら金光大神を抜きにして、もう金光様の教えだけを覚えたから、もう神様と直結する。
もう金光大神と直結せずに、天地の親神様と直結する。これなんかまあ、代表者ですね、石井喜代司さんなんか。もうこれでほんとにおかげを受けておるです、ね。だからほんなこてあんたは、神様に参ってこんでもいいよち私が言うくらいでした。ところがそれが、とうとう軌道の無い頭だけの機関車のようなものだと神様がその後に教えて下さるんですね。どこまでも天地につながる大道というか、軌道というか。ね。
これは軌道にはやっぱりやらしていただくということもです、お取次ぎの働きというのがあるのです。金光大神が間違いなく天地に身を貫通された。貫かれた。ね。天地金乃神と同根というところまでの御信心をお進めになられた。そういう金光大神のお取次ぎの道というものがです、軌道というものに、こう乗らせて頂かなければ、私は真実のおかげに進展していかないとこう思う。ね。
それは、なるほど天地の道理を体得して道理に基づいた生き方をすれば、ちょうど天地が限りないおかげを皆の上に下さるわけですが、そこが人間であり、生身であるということ。どこにお粗末やご無礼やらあるやら分からんということ。そこでお取次ぎを頂かれ、お取次ぎをして下さる先生、お取次ぎをして下さる金光大神様の御徳にお縋りしてです、そこんところをカバーして頂く。ね。
同時にそこに願い、また頂くという働きとですね、日々の上に表していくという。お取次ぎということの上にはそういうような意味があると思うのです。ですからいつも私と皆さんというのがです、私と皆さんがです、いつも交流しておらなければならない。直結しておらなければならない。為には、やはりもう今日いっぺん参ったからということではない。やはり特別なお願いでもある時には、お取次ぎを頂き、もうどうでもお願いに参るというぐらいな、それが必要である。ね。お取次ぎを頂き、お取次ぎを願うという事はそういうことだとこう思うんです。
どうぞ。